「如何しました、お茶がこぼれますよ」
「俺」はその声で急に我へと帰り、目をしばたいて椅子に座り直した。
気が付けば、手にした湯呑み茶碗が確かに傾いでいる。
咄嗟に今己が置かれている状況が理解出来ず、慌てて茶碗を一度卓上の受け皿へ置き、自分が居る空間を見回した。
何処なんだ、ここは。
見慣れぬ室内に視線を泳がせながら必死で記憶の反芻を試みると、この場所を訪れた時の映像が脳裏に蘇った。
ここを訪れるべく叩いた扉の磨硝子には、文字が見えた。
確か……『鳴海探偵社』。
探偵社?
「……本当に、如何かなされたのですか。ご気分でも悪いのですか?」
俺はそこで漸く、卓を挟んで向かい側の壁際に立つ声の主に眼を遣った。
歳の頃は十七、八位だろうか。黒い詰め襟の學制服に身を包み、目深に學帽を被った少年。
その美しい面立ちからは感情らしい感情が読み取れず、何だか人形じみている。
血の通った人間では無い様な、現実味さえ疑わせる容姿。
まるで「まやかし」――さもなくば「あやかし」のようだ。
正直言って、少し気味が悪い。
然し彼は、そう確か自分を『探偵助手』と称した。
そしてここの所長である探偵は所用で留守にしているから、代わりに話を聞きましょうと着席を勧めたのだ。
見れば窓際の事務机と共に鎮座する高価そうな椅子は、在るべき主を失っていた。
「では、どうぞお話を『最初』から全て話してみて下さい」
彼はにこりともせず語り掛けて来る。
學帽の廂に添えられた指の隣から覗く俺を観察する様な炯眼は、酷く居心地が悪い。
ああ、そうだ。思い出した。
「俺」は、自分の意志でこの探偵社を訪れたのだった。
最も、今はその事を後悔しているのだが。
俺はかの探偵助手とやらに促されるまま、おもむろに口を開いた。
「……馬鹿げた話何だ。
信じて貰えないかも知れないが……俺は、或る一人の女を殺したくて仕方がないんだ。
その女とは、俺の夢の中に幾度となく現れる女の事さ。
彼女が夢に現れる度、俺はその姿を追い掛ける。彼女を殺す為に」
そこで一旦言葉を区切り、こちらを見据える少年の反応を窺った。
彼は無言で相変わらずの無表情で、こちらの口述を信じているのかいないのか、全く判断が付かない。
仕方なく、俺は話を続ける事にした。
「夢の中、濃い霧の中で、俺は女を追う。
彼女を殺したいから……否、殺さなければならないからだ」
「殺したのですか?」
「え?」
そこへ来て初めて少年が口を挟んだものだから、俺はつい頓狂な声を上げてしまった。
「夢の中で貴方は、その女性を殺したのですか?」
一応まともに話を聞く気はあるらしい。俺は躊躇いながらも返答する。
「否……殺さない。殺していない。と言うか、殺せない。
いつも後一歩の処で、夢は醒めてしまうんだ」
何だか暑い。
俺はレースに縁取られたハンカチーフで顔の端を伝う汗を拭い、言葉を紡ぐ。
「さっき言った通り、馬鹿げた話さ。だけど……俺には判るんだ。
あの女は実在してる。現実に生きて、存在している。
いつか、あの女と出会う時が来る。夢の中じゃない、現実世界で。
ああ、然しそうなってしまえば、俺はきっと彼女を殺す。殺してしまう。
そしてそれはもう直ぐだ、もう直ぐ俺はあの女と出会い、殺してしまうんだ!」
思わず声を荒げても、俺を据える眼差しにはまるで温度と言うものが感じられない。
その不動過ぎる視軸は却って俺を苛立たせたが、今目の前に他に縋れる者は居なかった。
馬鹿げた話でも、切実だった。
そうだろう、もし万が一にも彼女を殺してしまえばそれは大変な事となる。
「だから……俺を止めて欲しい。俺を見張っていてくれ。
俺に彼女を殺させないでくれ」
そこに変わらず在るであろう無機質な眸子から逃れる様に眼を伏せ懇願する俺へ、落ち着き払った抑揚の無い声が降り掛かる。
「何故殺したいのです」
「……は?」
「何故貴方は、その女性を殺したいと思うのです」
上げた視線の先には、學帽の廂を摘んで被り直している様な仕草の彼が居た。
「それは……それは判らない。
判らない――けれど、俺はきっとあの女を殺してしまう。
それだけは判るんだ……!」
俺は社屋を飛び出した。
酷く後悔していた。
あんな事を他人に話すのではなかった。
外には霧が立ち込めていた。あたかもあの夢の様に濃い霧だった。
一切が朧気な景色の中、人影が浮かんだ。
霧の中で振り向いた顔は、夢で何度も確認した女と同じだった。そのものであった。怯えた眼をして俺を見ている。
俺がその場から一歩踏み出そうとすると、彼女は後退りをしてついには走り出した。
待て、待ってくれ。俺は彼女を追い掛け、霧の中を駆ける。
矢張り居たのだ。実在したのだ。やっと見つけた!
俺は女を追い詰めた。もう直ぐ手が届く。女は恐慌を来した悲鳴を上げる。
殺す、殺してやる。絶対に殺すのだ!
「失礼」
「!」
不意に背後から声がしたかと気付くや否や、後ろ襟を捕まれそのまま勢い良く引き倒された。
したたかに後頭部をぶつけ、目から星が飛ぶ。
「大丈夫ですか」
堅い地面の上で声も無く呻く自分を、書生姿の少年が見下ろしていた。
言葉とは裏腹に、その白い面には微塵にも心配の色など滲んでいない。
細い体格に見えて、何て腕力だろう。
「御覧なさい。貴方今しも川に飛び込む処でしたよ」
「……え?」
上半身を起こし辺りを見回すと、確かにそこは橋の上だった。
幅広に石畳を敷き詰めた両端には、朱塗りの欄干が連なっている。
「では今一度、探偵社に戻ってはみませんか。『御婦人』」
彼はにこりともせずに、「私」へ向かってそう言い放った。
「記憶にありますか? ご自分の人格が入れ替わった時の事を」
探偵助手と称す少年は、混乱したままの私を半ば強引に社屋へ引っぱり込み、お茶を差出し卓を挟んだ向かい側の席に座り、涼しい顔で諭し始めた。
「僕の目の前で、貴方は人格変換を起こしたのです。
自覚がおありなのか――それ以前に信じて戴けるか判りませんが」
――ああ、そうだ。思い出した。
「私」は自分の意志で、この探偵社を訪れたのだった。
そして、奇異な悩みを打ち明けたのだ。
幾度となく同じ夢を見る。見知らぬ男に追われる夢を。
霧の中で男は私を殺そうと追ってくる。そう直感した。
あの男は実在する。きっと現実世界にも現れて、私を殺そうとする。
だからどうか、私を護って下さい――と。
「『男』は貴方の中で生まれた、もう一つの人格でした。
『男』は『体』を手に入れんが為、『貴方』を抹消しようとしたのです」
少年はあたかも総てを見透した様に語り続ける。
「然しそれは同時に『男』の存在をも消してしまう方法でした。
本能的にそれを感知した『男』は、助けを求めて来たのです」
何だか暑い。
私はレースに縁取られたハンカチーフで顔の端を伝う汗を拭い、話を聞き続ける。
「あの時、橋の上で『男』が迫ったのは、川面に映った『己の姿』でした。
異国の童話に出て来る犬さながらに」
相談料として請求されたいくばくかの金額を少年に渡し、私は探偵社を後にした。
きっと今私は、狐につままれた様な面持ちをしているに違いない。
嘘の様に霧が晴れた夕闇迫る筑土町を歩きながら、霧掛かった頭の端で、何処か他人事の様に思った。
黒い詰め襟の學制服に身を包み、目深に學帽を被った少年。
その美しい面立ちからは感情らしい感情が読み取れず、何だか人形じみている。
現実味の薄いその佇まいは、まるで「まやかし」――そうでなければ「あやかし」のようで。
正直言って、私は少し気味が悪かった……。
(おまけ)
「初めは悪魔が憑いているのかと思った」
「待機ハ万全ダッタノニ」
「広義の上では人の心より生じる悪魔も少なからず……あながち間違いでも無いんじゃね?」
「パッキリクッキリ心模様替え状態だったね。人間って人格もド変態出来るんだね。うーんミステリーナーイツ」
「それよりあんな頭金程度で良かったん? 熱あるんちゃうの? 具合悪うなったら正直に言うてエエて、あれ程……」
「実証不可能の事件で、下手にふっかけあらぬ嫌疑を掛けられても困る。実際大した労力を割いた訳でもないし」
「……報告の義務は、あるだろう」
「報奨の義務を怠り、債務者としての責任をも放棄して放蕩真っ只中の上司に対し、果たす義務など存在しない」
「言イキッタ」
「将としての役割を果たさねぇと、従者に足元掬われんのは世の常だなあ」