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初夏の訪れを前に、多摩川では稚アユの遡上(そじょう)が始まっている。江戸の昔には将軍家へ献上されたことでも名高い多摩川水系の天然アユ。昭和の高度経済成長に伴う河川の汚染で一時は姿を消したものの、その後は水質改善により徐々に数を取り戻した。近年では「江戸前アユ」の名で呼ばれ、遡上を助ける魚道の整備など、その復活≠ヨの取り組みが実を結ぼうとしている。
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鶯(うぐいす)色の背に淡い黄色のヒレは日本特有の川魚の風情を帯びる。晩秋に孵化(ふか)した仔魚(しぎょ)は生まれた川を下り、冬は東京湾でプランクトンを食べて過ごす。3〜5月に川を上り、珪藻類をエサに盛夏には体長20〜30センチの成魚に育つ。水面に踊る姿は、夏の風物詩とされた。
江戸時代には多摩川上流域や支流の秋川で採れるアユは鮮度のよい状態で江戸に届けられたことから「御用鮎(または御菜鮎)」として歴代将軍に供された。明治、大正の代にも天皇や皇族がアユ漁を見物に訪れたという。
それが高度経済成長期に入ると、アユ漁でにぎわった多摩川の景色は一変した。昭和35年ごろ、大都市の水脈は下水で汚れ、白い泡が浮かび悪臭を放つほどに変容。「死の川」とまで呼ばれた。「清流の女王」といわれるアユは数を急激に減らした。
公害対策によって50年代からようやく水質改善に向かい、都は58年に遡上するアユの観測を始めた。観測初年は18万匹だったが、平成5年には100万匹を超える遡上が確認され、多摩川アユ復活の兆しが見えた。同じ東京湾に注ぎ込む荒川や江戸川で生まれた稚アユも、多摩川を上ってくるようになった。24年に観測史上最多の1194万匹を数えた。いまだ年ごとに変動は大きいものの、この10年間で年平均約388万匹が遡上する。
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それでもアユにとって過酷な環境が解消されたわけではない。川を横断する堰(せき)が遡上を阻んでいるのだ。多摩川には主要なものだけで10基以上ある。コンクリート造りで1・5〜4メートルの高さがある堰は、体長約5センチの稚アユでは上るのは困難。運よく越えられるのは1%未満という。堰で滞留すれ鳥などに捕食されてしまう。
多摩川には堰の両脇にスロープ状の魚道はあるが、水の流れが緩やかで、ここを上るアユは少なかった。アユは強い流れに向かって泳ぐ習性があるためだ。
そこで新たに提案されたのが、流れの勢いを残す石組みの魚道。考案した日本大の安田陽一教授(環境水理学)によると、石を積み上げて造った魚道は、石の隙間に自然な水の流れができる。アユはその流れに向かって石の間を泳いで上る仕組みだ。令和2年に中流域の日野用水堰で初めて導入、今年3月にはその上流の昭和用水堰でも完工した。
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アユは「香魚」と称され、スイカの匂いに例えられる香りが特徴。秋川漁業協同組合(あきる野市)の安永勝昭組合長(77)は「昔は夏になると川はアユの香りでいっぱいになった」と話す。西多摩の山間部から湧き出るミネラル豊富な伏流水を含む秋川のアユは、良質な藻を食べて育ち香りが高いという。
秋川漁協では、20年ほど前から地場の天然アユを「江戸前アユ」と銘打ち、多摩川アユのイメージ刷新に努めてきた。28年には全国各地のアユの味を品評する「清流めぐり利き鮎会」で準グランプリを獲得し、「江戸前アユ」の名は多摩川の環境改善のシンボルとなった。
秋川では6月にアユ釣りが解禁されると、多くの太公望が長竿を連ねる姿が見られる。「江戸前アユ」は地域ににぎわいをもたらす資源にもなっている。
安永さんは「多摩川を代表する天然アユ復活への活動を通じて、多摩川全体の河川環境への関心につなげていきたい」と期待する。(末崎慎太郎)