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長官と中央庁の命令で動く鴉
それが私の全てであり、過去は置いてきたはずだった
今になって、教団も中央も目に見えない渦に飲まれ、思わぬ形で過去がやってきた
自分の知らない所で昔の仲間が、変わり果て遂には、伯爵側にまでついてしまった
この後悔は消えない
私は何故、今も生きているのか
誰にも問えない疑問と憤りを抱え、ウォーカーを、14番目を探していた
ある街に来た時
大通りを歩いていると、脇道から女性の悲鳴が聞こえた
咄嗟に動いた身体で声の場所まで走ると、強盗に襲われているらしい女性を見つけた
持っていたバッグが奪われそうになっており、髪を振り乱して抵抗している
瞬時に両腕のナイフを出し、男二人に斬りかかった
武道派ではないのか、力の弱い男達が退散するのに時間は掛からなかった
「…あ…、ありがとうございます…」
襲われていた女性は地面に座り込んでいる
髪を乱し、俯きながら肩で荒い息をしていた
余程格闘したのだろう、全身に擦り傷が付いている
しゃがみ込み、持っていたハンカチで傷口の砂を落としてやれば、彼女は漸く顔を上げた
「…本当に、ありがとう」
その瞳を見て、脳裏に何かが過ぎった
しかしその影は一瞬で消え去り、思い出そうとしても出てこない
手を止め、睨みつけたような形になった私に、彼女が下から様子を窺ってきた
「あの…?」
濃い、茶色の瞳
「…いえ、これからは気を付けてください。私のような者が側にいるとは限りませんから」
手にしていたハンカチを半ば彼女に押し付け、その場を立ち去ろうと腰を上げた瞬間
思いも寄らぬ力で手首を掴まれた
勿論、目の間の彼女にだ
彼女は強い瞳でこちらを見て、
「あの、何かお礼を。せめてお名前だけでも」
そう言った
知らない街で会った知らない人に名前など、残してどうなるものかと思ったが、そうでもしないと彼女の瞳が離してくれそうになかったので
「…リンク、です」
そう名乗れば
「リンク…?」
彼女は顔色を変えた
「…何か」
胸騒ぎがする
「…あ…いえ、昔同じ名前の知り合いがいたもので…」
そこでまた脳裏に過ぎった
昔、何度も見た、影
「貴方と同じ、ブロンドで、眉も…」
彼女はそこまで呟くと、
「…リンク…?」
再度、私の名前を呼んだ
それは、懐かしさの含まれた名前だった
教会とパンと瞳
途端に全てが甦る
「何故貴方がここに…!」
彼女は、昔
私達が教会で物乞いしていた時、
「リンク?リンクなの?」
教会に来ていた娘
「…久しぶり…!」
豪華なドレスを着て、私達にこっそり食べ物を分け与えてくれた
あの
「何年ぶりだろう…十数年くらいかな」
彼女はそれまでとは真逆に、嬉々として話し出す
伸びた髪と成長した顔立ち
光の映る瞳が眩しい
しかし
「マダラオ達は元気?」
その質問に私が上手く答えれらなかったために、光は消えた
「…ごめんなさい」
彼女は悟り、口を噤んだ
その昔
マダラオ達と群れ始めたあたり、私達は彼女と会った
よく行く教会に彼女も礼拝に来ていて、そこでみすぼらしい私達に慈悲を与えた
家から持ってきたパンや果物を、少しずつ私達に分け与えてくれた
私達より5つ6つ年上だった彼女には、世間の常識も格差も身分も、分かってきていた頃だと思うが、彼女は私達を賤しめたりしなかった
そんな日が続いていて、私達は彼女と親しくなった
優しげな笑顔と、知らない世界の話で私達を楽しませた
私とマダラオと彼女は、比較的年も近い方だったので、自然とよく話しをした
しかし、終わりは急に訪れた
私達は彼女に会えなくなった
それが鴉としての始まりであり、私の生れた瞬間だった
昔を思い出していた私に、彼女が握っていた手の力を強くして言う
「リンク、良かったら家に寄って。近くにあるの」
そう微笑む彼女の小さなえくぼは記憶と変わらず、自らの瞳の鋭さも、緩和してしまうような気がした
「どうぞ、上がって」
彼女に導かれて訪れた家
「失礼します…」
開かれたドアをくぐって思う
記憶が正しければ、彼女は資産家の娘のような位置だと認識していたが
この家はそれほど富裕層が集まる地域でもなく、街の一角に静かに佇んでいるだけだった
中も整頓されてはいるが豪華ではない
何より彼女と私達が出会った教会は、この国ではない
こんな離れた土地に、何故彼女はいるのか
そんな瞳に気付いたのか、彼女が恥ずかしそうに俯いて言う
「うちね、本家の人間がいなくなっちゃったから」
『いなくなっちゃった』
彼女は軽々言ってのけたが、昔、彼女の後ろにいた大人達は、皆綺麗な身なりをして教会に来ていたはずだ
毎回見る面子も違っており、大きな家だろうということは想像できた
「だから、今はとても質素なの」
床に落とされた瞳は、何を映しているのかわからなかった
彼女はそうしてしばらく瞳を落としたままでいた
再会を果たしたばかりの私に、どこまで告げるべきか迷っているのかもしれない
そうして次に彼女が口を開いた時、私は思ってもいなかった事実を知ることになった
「皆、黒の教団…という所に、連れて行かれたの」
思考が追いつかなかった
それはどういうことだろうか
代々のサポーターであれば、連れて行かれるということはない
イノセンスの適合者が同じ家系から複数出ることも考えにくい
となれば
人体実験
イノセンス適合者の血縁者にイノセンスを無理矢理適合させる、あの実験
彼女の家系はそれで滅びたというのか
そんなことがあり得るのか
彼女は一体、どこまで知っているのだろう
「私は小さかったから、それしか聞かされていないの。両親が私を養子に出して、そこから嫁いで今は、この国に」
彼女がそこまで言った時、玄関のドアが開いた
「!…お帰りなさい、貴方…」
そこには背の高い男性がいた
「リンク、紹介するわ、私の夫」
男性は柔らかく微笑んでこちらに歩み寄ってくる
「初めまして」
差し出された手を、戸惑いながら握る
「貴方、こちら昔の馴染のリンクです」
その手は、あまりにも弱く重ねられ、夫の真相心理が見えた
「そうかい。ゆっくりしてくといい」
そう言い部屋の奥に下がる彼は
「ありがとう、ございます」
私の言葉を聞くのもそこそこに、彼女を呼び出した
「ちょっといいかい」
私の聞こえない所で、彼が彼女に何か言う
そのトーンは低く、負の物であるのは明らかだ
よく耳を澄ますと端々だけ聞き取れた
「若い男を連れ込むとはどういうことだい」
「…彼とはそんな関係じゃない」
やはり、彼は私がこの家に上がったことをよく思っていない
握り返されることのなかった握手でわかる
私のせいで夫婦の関係に亀裂が入ってはと、自分が辞することを告げようとした時
「もう戻らないよ」
彼はそう言い残して、家から出て行ってしまった
唖然とする私を尻目に、彼女は開け放たれたドアを見つめている
「いいんですか?追いかけなくて」
思わず聞くと
「いいの、もうね、疲れたの」
彼女は肩を小さくしてそう答えた
「もう何年も、ずっと、我慢してた。私には戻る場所がなかったから。でも、もういい。あの人には着いていけないの」
小さな嗚咽が混じる彼女の心情を、全て図ることはできない
どんな辛い経験をしたのか、想像することもできない
しかし
「私は、もう、自由になりたい」
あられもなく透明な滴を落として肩を震わせる彼女を、この身体は自然と抱きしめていた
戻る場所がない、と嘆く彼女が、少し自分と重なって見えた
かつて優しげな笑顔で私達に癒しをくれた彼女が、こんなにも追い詰められることがあるなんて
私は静かに、憤りと加護欲を浮かび上がらせていた
そうやってしばらくすると、腕の中で静かに震えていた彼女が顔を上げる
「ごめんなさい、変な所を見せちゃって…」
「いえ…」
まだ濡れる目元に目を奪われる
「ありがとう、リンク。男性らしくなったね」
そう私に微笑む彼女は、美しかった
昔の面影が少し残る、華奢な一人の女性
すぐに折れてしまいそうな腕と身体が、自分にそっと身を寄せていて
心に感じたことのない違和感を覚えた
「見て、リンク」
彼女がふとドアの方を見る
「夕焼け」
開け放たれたドアの向こう
空が何色にも染まっていた
まるで絵画の世界のよう
「とても綺麗」
溜息をつくように漏らした言葉は、吐息となって私の鼓膜を震わせる
群青と金色と橙
合わさってとても美しい絵を描く
「貴方の色ね、リンク」
こんな美しいものは私とは似ても似つかないのに、彼女はそう言う
私の方を見つめてから、結わえられた髪を一房取り、愛でるように撫ぜた
彼女の指に直接触られた訳でもないのに、ぞわっと背筋が浮いた
こんな感覚は知らない
「…リンク…?」
不思議そうに未だ濡れた瞳で覗き込む顔は、あまりに近くて動揺した
そして思う
彼女の左手に輝く銀色
「外してください、そんな首輪」
彼女にはもう必要ない
そう言って驚く彼女の左手を取り、そっと薬指に指を伸ばせば、今度は彼女が息を飲んだ気がした
数年間、ずっとはめられていて指に沿った輪
多少強引に、それでも痛くないよう細心の注意を持ってそっと指から外すと、上からぽたりと滴が落ちてきた
「リンク…」
昔、彼女と会ったその時から
既に惹かれていたのかもしれない
でもあの時は生きることに必死で、そんな感情の相手はしていられなかった
身分違いだということも、幼いながらに理解していた
だけど今、彼女は本当に身ひとつでここにいる
華奢な身体で私の腕の中にいる
この二度目に味わう甘く痛い感情を、どう処理すべきだろう
考えてもわからなかったので、とりあえず身体は彼女の瞳の水源をせき止めるべく、この唇を寄せていた
唇に当たる微かな睫の感触
何度かそれが動いたかと思えば
彼女の涙は止まった
そして驚いたように見開かれた濃い茶色の瞳は、私の金色を映していた
こちらから口を開かない限り、彼女から言葉を発する気配はなかった
性 別 | 女性 |