更新情報

2024.4.20 また書き溜めていた記事を少しずつ公開しています。

今回は区切りを設けました。→ http://mblg.tv/sakayuka/entry/388/
ここ(2023.11)から時系列順に?読んでいただければ。

書きなぐってそのまま尻切れのようになってるものもあるかもしれません。(たぶん電車を降りたタイミングとか)
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どうもご無沙汰しておりました。鮎川です。

なんとなく、これまで下書きに投げ入れたままだったこの「空白期間」の記事をアップしました。(まだ途中ですが)

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仲間になれる条件

榊はまだSNSでの人間関係に固執している。


結局、向こうの方たち(の目的)というのは
「同じ(しかもかなり高い)温度で群れて盛り上がりたい」人たちなわけで
それに同意・同調できない以上、仲間に入れないのは仕方のないことだと僕は思う。

僕と榊はかなり低温。
なんなら皆さんの熱量に引いてばかり。


推し方色々、楽しみ方色々で、みーんな仲良くできれば理想的だし
それをしてくれないのは冷たいのかもしれないけれど
条件を満たさないのはこちらなのだから、相手を責めるのは違うと僕は思うのだ。


それこそ相手の推し方を尊重すればいいだけのこと。
それがイコール自ら距離を置くという形だっただけ、ではないか。

なぜ勝とうとする。
なぜ愛されよう、愛させようとする。



僕は「そういう(合わない)人」たちには尚更興味がない。

合わないんだったら、合わないなり。
合わせてくれないなら、こちらも合わせる必要はない。と思う。


群れの中での虚しさよりも
孤り当然の寂しさを取る。


でも榊はまだウジウジと内心糾弾している模様。
正しさを叫んでも疲れるだけだろうに。
そんなことしてる時間や労力が勿体無い。


生い立ちのせいで嫌われ続けてきた人生だったから
好かれたい
嫌われたくない
そこに関してかなり過敏なのはわかるけれど
(僕だっていじめられ、嫌われ続きの人生だった)

逆に、だからこそ、とっとと見限ればいいのに、と思う。
何にそんなに拘るのか。
何がそんなに引っかかるのか。

そんな人たちに媚びを売るのは違うし
(好かれたい一心で"頑張る"のは自由だが)
求めたり、責めるのはもっと違う。


なんだかね、榊の方がやっぱり嫌われるだけの理由がある気がしてきてしまっている。

距離感に迷う

連休前にNさんに返事を書いてみた。

やはり体調もあったのだろう、良くなりつつある今は、心地よく筆が進んだ。

下書きをし、清書しつつ、何度か書き直しもした。しかしそれも想定の範囲内。予定より少なく済んだ。


たくさん話したいような、
距離を保ちたい旨を以前(報告の頃だろうか)言われたこともあった手前、控えめに徹したいような。揺れながら書いた。


榊に見られたくないのもあって、Nさんはあの方法をとったとも考えられる。
当時は当然メールも電話もしあった。しかし、おそらくはあの報告の前後でアドレスの交換・更新はお互いにとめてしまった記憶。

今こそメッセージアプリの出番のような気もする。が、それは完全に思い上がり、のぼせ、のような気もして控えることにし、手紙を封した。

A.Mucha

僕は美術展の会場で涙した。
作品の世界観に圧倒されて。その完成度の高さに圧倒されて。
与えられた題目に対する自分の発想力や技量のなさを身につまされて。悔しくて。つらくて。プレッシャーで。

今回、人生で初めて目の当たりにした、アルフォンス・ミュシャ。
絵画にある程度興味がある人なら、知っているだろう名前。
定かではないが中高生の頃に出合ったように思う。何かの入場特典でポストカードをもらった。図柄はランダムで、僕は黄道十二宮だった。もっと幼き時には、誰からの影響でもなく「星」や「暦」が大好きで、そこから当たり前のように自分の根底に流れている僕にとっては本当に美しすぎる絵であった。
田舎で、インターネットも今ほどではない時代であり境遇であった。だからそのたった一枚のポストカードが僕のすべてだった。それで十分だった。知れば知るほどミュシャ然とでもいうべきフォーマットは、強すぎ、暑苦しく感じられて、そして一辺倒にも見えて、僕は距離をおいていた。 


絵の依頼は依然として煮詰まっていて、あえてしばらく触れていなかった。
面倒くさいので父と母にも経緯と状況だけはカミングアウトしておいた。
とにかく「詰」まっている自覚こそあったけれど、それはあくまで客観的な感じであった。自分のことでありながら、だいぶ手前の段階で距離をおいて、冷めた感覚で見ている、とでもいうような。

「降りたい。逃げ出したい」とか、冒頭のような気持ちや状況の言語化ができたのは、作品と対面したときだった。

ミュシャはリトグラフ。輪郭線や幾何学の組み合わせ、ややフラットに感じられる着色のせいで、ある種、簡単そうに見えるが、この完成度に至るまでには、当たり前すぎる話ではあるが、並大抵ではないセンス(デッサン力はもちろん、発想、構成)が要される。フラット=省略されていても、貧相でない、むしろそれが紛うことなき正とすら思わせる仕上がり、何であるかわかること、装飾模様として図案化され、随所に組み合わせて敷き詰められていること。そして
「あぁ、おそろしい…」
どんなに小さな作品(挿絵)でも、どこまでも精密に描き込まれていること。解像度が高すぎる。
強すぎ、暑苦しいと感じていたのは、圧倒的な技量と世界観そのもので、僕はもう最初から本能レベルで圧倒されていたのだろう。


打開策になるという期待はなく、ただ時間があって、近くで開催されているからと、立ち寄ってみた次第。
結果的に収穫はあった。依頼の難所、極端な縦横比はミュシャの縦長の絵にだいぶ近く、それは頭ではわかってはいたけれど、いざ目のあたりにしてみてようやく励まされた気分だった。
狙ってないときほど得られるものは大きい。といっても、相手が本当にすごすぎるので、本当に全く参考にならない(自分のものとして落とし込みきれない)。”真似”るのがせいぜいだろう。もうそれでもいいだろう。背は腹に変えられない。

何より久々の悔しまじりの感動の涙は清々しかった。
僕はいつもここから始まる。きっとうぬぼれが強すぎるのだろう。
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星のごとく

貴賤をつけるつもりはないけれど

上質、あるいは重厚な読書は心を落ち着ける。
水底の砂を静かにかき分け、湧き上がる水の感触を確かめる感覚。

本来の自分を取り戻すような。


30代前半までは
奮闘し、鼓舞してくれる物語に活力をもらっていた。
爽快な気持ちになることで満たされていた。

あるいは

いわゆる「しっとり」下手すれば「じっとり」した、心情の機微を精緻にかきとった恋愛(耽美を含む)もの。とか。


今は、読み進めるのが気鬱になるほどの、心が静かに重苦しく、重なり、すれ違い続けるものが、自分に合っているようだ。
自分と向き合っているのかもしれない。現実世界でも。



きっと書籍と自分は合わせ鏡の関係なのだと思う。
本、物語、そこに紡がれる言葉を通して、自分を見つめ直している。気がする。



ヒリヒリするものなら学生時代に読んでいた。好きだったのかもしれない。
それはおそらく現在進行形で同じ心境や境遇だったから。

今読んでいるのは違う。

何も重ならない、はずだけれど、心の部分だけが僕の核と同じすぎて、またそれだけでなく、そこは僕が目を背け続け茶を濁し続けている部分でもあるから、本当に痛くて。

登場人物たちの懸念は、僕の懸念や、課題でもあって。
チラつく展開は、僕の現実や想定される未来を幾度となくかすっていく。

人物たちは僕より少し若く、だからこそ、生々しく感じてしまう。自分が、物語の一つのifの末路の気分で。

都度胸は軋み、不安が頭をもたげ、苦しくなる。
しかしその一方で、わずかな光を必死に感知しようとする物語のそれのように、僕の心も暗闇の中で光があるだろう方向を信じて向く。

光のある方を分かって向く、光にたどり着けるまでがむしゃらに探し続けるのが、これまでだったとすれば、
今は、光を見出す、ような感じだろうか。


昔の(若い)僕が聞いたら、それは負けだと思うかも知れない。間違い(光ではない)と思うかも知れない。そして実際そうかも知れない。けれど、それもまた光だと僕は思いたい。
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