『オルフェウスとエウリュディケ』

2012/12/14の雑記に書いてあったオルフェウスの話について、投げっぱなしでしたが元ネタが判明したので書き出してみます。
阿刀田高さんの『闇彦』という小説内でのやりとりでした。


「死の掟は絶対でしょ。死んだ人はもう戻れない。戻す方法はただ一つ。しっかりと姿を見つめて記憶して、それを思い出し続けること、それがわかったからオルフェはあえて禁を犯して振り返ってエウリュディケを見た、のね。駄目かしら」
(夕海子いわく。本文p120より抜粋)


オルフェウスが「死んだ奥さんを生き返らせてくれ」と冥界まで行って、なんやかんやで「オケーだけど冥界抜けるまで振り返っちゃダメ」の言いつけを出口寸前で破ってしまったアレです。

死と確定せずとも、大切な人との別れの考え方についてルークでわりと何でも変換してしまういつもの病気です。

ガイが(屋敷時代のあれやこれを経て)本当に向き合おうと求めたのはアッシュだった訳で、そして共に生きたいと思ったのはルークで、これから向き合うのはEDのアッシュだと考えるとメメントモリ。

サイト内どこかしで言ってますが、EDの赤毛はレプリカルークの記憶も持っているアッシュのパターンを推奨しています。
それでいて以下の話はガイルクを添えてます。

というわけでレプリカルークの生涯はエルドラントで終えて、アッシュという名前も帰ってきてからは使わないと思います。二人にとってあの時、名前と記憶の更新、存在明記するものが終わってしまったものだと思います。

さてさて。喪失に対する悲しみは距離を認識してしまうからだという考え方があります。
「会いたい人は居るがもう5年も会えないでいるんだ。この世にはいないからね」
人は時間というメジャーを持っているからこそ会えなくなった人物との間を数値に変える事が出来る。
数日前、去年、3年…10年…30年前。今居る時点からの数値変換はとても簡単。
しかし、人の脳はカセットテープ式のように巻き戻し早送りするのではなく、CD形式の選択式。
「小学生の頃の事」というと順繰り人生を逆行するのではなく、おおかた時間をかけずに当時のことを思い出すことができるはず。
だからこそ、長さに関係なく、その人を思い出い浮かべるときはそういう時間などを越えて一瞬でその人を側に迎えることができる。
ガイが「ルーク」と思い浮かべたその瞬間、2年前にいなくなったルークはすぐそこに呼び起こすことが出来る。

オルフェの話からはそれましたが、夕海子説のオルフェは道理を曲げて愛する人を側に置くのではなく、覚えていさえすればともに生きているのだ、と生きているものが唯一できる道理上の寄り添い方を選んだものだという考えでした。

「ED後ガイと一緒に生きてるルーク」という死んだ存在を平面上の妄想パワーで生きていたというif世界を作り上げるのもまた創造のなせるものです。が、死があるからこそ生きる事に対し思考する。ルークがエルドラントまでをどう感じたのか、そこに妄想をねじり込むのがこのサイトが生まれた理由ですからね。
生命の営みを尊重し、あえて振り向いたオルフェウスだったという夕海子解釈好きです。


死と時間の感覚に関してはこちらのサイト様の意見を参考にさせて頂きました。